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【頻出論点】パターナリスティックな制約では違憲審査基準は緩やかになるのか?

2025年10月23日

憲法の論文試験では、パターナリスティック制約は頻出論点であり、過去に3度出題されています。

  • 平成20年司法試験 フィルタリングソフト法案
  • 平成30年司法試験 有害図書の販売等を規制する条例
  • 令和7年予備試験 有害差別図書の販売等を規制する条例
    →類題:基礎問題演習テキスト「憲法」第20問

パターナリスティックな制約とは、公権力の主体(政府)が、本人自身の保護のために、本人の意思を無視して、本人の自由に干渉することを意味します。本人にとっては、自分にとっての利益・不利益が何であるのかを政府(又は社会の多数派の意思)によって他律されることになります。

関連する著名な判例としては、岐阜県青少年保護育成条例事件(最三小判例平成元年9月19日)が挙げられます。

誤解している人が多いようですが、パターナリスティックな制約であること自体は、合憲ではなく、違憲の方向に評価されます。何が自己にとって利益かは本人が最もよく判断できることであり、他人が「これがあなたの利益だ」といって押し付けることは、自由主義に反すると考えられるからです。

 ” 個人を個人として尊重するためには、個人の人権を他人の利益のためではなく、本人の重大な利益のために制限する必要があるということも起こりうる。本人の利益のために本人の権利を制限するというのは、パターナリズムといわれる考えで、自由主義の下では原則として忌避される思想である。なぜなら、何が自己にとって利益かは本人が最もよく判断できることであり、他人が「これがあなたの利益だ」といって押し付けることは、自由主義に反すると考えるからである。しかし、子どもや精神障害者など判断能力が不十分な者に、自分自身で判断しなさいといって自由に任せるのは、「個人としての尊重」することにはならない。したがって、パターナリズムによる干渉も、人権制約として許される場合があることを認めなければならない。それも「個人として尊重」するための制約だとすれば、公共の福祉の内容をなすことになる。”(高橋和之「立憲主義と日本国憲法」第3版116~117頁)

したがって、違憲審査基準を定立する過程において、パターナリスティックな制約であること自体を持ち出して、厳格度を下げることはできません。それにもかかわらず、パターナリスティックな制約であること自体が違憲審査基準を緩やかにするものであると誤解している人が一定数いる原因は、岐阜県青少年保護育成条例事件の伊藤正己裁判官の補足意見にあると考えられます。

同事件の伊藤正己裁判官の補足意見は、青少年保護を目的とする有害図書規制について、「青少年…の保護を行うのは、第一次的には親権者その他青少年の保護に当たる者の任務であるが、それが十分に機能しない場合も少なくないから、公的な立場からその保護のために関与が行われることも認めねばならないと思われる。本件条例もその一つの方法と考えられる。このようにして、ある表現が受け手として青少年にむけられる場合には、成人に対する表現の規制の場合のように、その制約の憲法適合性について厳格な基準が適用されないものと解するのが相当である。そうであるとすれば、一般に優越する地位をもつ表現の自由を制約する法令について違憲かどうかを判断する基準とされる、その表現につき明白かつ現在の危険が存在しない限り制約を許されないとか、より制限的でない他の選びうる手段の存在するときは制約は違憲となるなどの原則はそのまま適用されないし、表現に対する事前の規制は原則として許されないとか、規制を受ける表現の範囲が明確でなければならないという違憲判断の基準についても成人の場合とは異なり、多少とも緩和した形で適用されると考えられる。」と述べています。

しかし、伊藤正己裁判官の補足意見は、その理由について、「青少年もまた憲法上知る自由を享有していることはいうまでもない…が、…その自由の憲法的保障という角度からみるときには、その保障の程度が成人の場合に比較して低いといわざるをえないのである。すなわち、知る自由の保障は、提供される知識や情報を自ら選別してそのうちから自らの人格形成に資するものを取得していく能力が前提とされている、青少年は、一般的にみて、精神的に未熟であって、右の選別能力を十全には有しておらず、その受ける知識や情報の影響をうけることが大きいとみられるから、成人と同等の知る自由を保障される前提を欠くものであり、したがって青少年のもつ知る自由を一定の制約をうけ、その制約を通じて青少年の精神的未熟さに由来する害悪から保護される必要があるといわねばならない。」と述べています。

このように、パターナリスティックな制約であること自体を理由に違憲審査基準を緩やかにしているのではなく、青少年の知る自由の保障の程度は成人のそれに比べて低くなるということを理由に違憲審査基準を緩やかにしているにすぎません。

したがって、パターナリスティックな制約であること自体を理由に違憲審査基準を緩やかにすることはできず、被侵害権利が青少年の知る自由のように憲法上の権利としての保障の程度が下がるものである場合には、そのことを理由に違憲審査基準を緩やかにする余地があるにとどまります。

その上で、違憲審査基準の当てはめでは、目的審査において、パターナリズムという考えは自由主義に反し許されないという原則論を出発点として、例外的に合憲と評価できる事情があるか否かを検討することになります。

 ” 本件条例によれば、6条1項により有害図書として指定を受けた図書、同条2項により指定を受けた内容を有する図書は、青少年に供覧、販売、貸付等をしてはならないとされており(6条の2)、これは明らかに青少年の知る自由を制限するものである。当裁判所は、国民の知る自由の保障が憲法21条1項の規定の趣旨・目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところであるとしている(最高裁昭和63年(オ)第436号平成元年3月8日大法廷判決・民集43巻2号89頁参照)。そして、青少年もまた憲法上知る自由を享有していることはいうまでもない。
 青少年の享有する知る自由を考える場合に、一方では、青少年はその人格の形成期であるだけに偏りのない知識や情報に広く接することによって精神的成長をとげることができるところから、その知る自由の保障の必要性は高いのであり、そのために青少年を保護する親権者その他の者の配慮のみでなく、青少年向けの図書利用施設の整備などのような政策的考慮が望まれるのであるが、他方において、その自由の憲法的保障という角度からみるときには、その保障の程度が成人の場合に比較して低いといわざるをえないのである。すなわち、知る自由の保障は、提供される知識や情報を自ら選別してそのうちから自らの人格形成に資するものを取得していく能力が前提とされている、青少年は、一般的にみて、精神的に未熟であって、右の選別能力を十全には有しておらず、その受ける知識や情報の影響をうけることが大きいとみられるから、成人と同等の知る自由を保障される前提を欠くものであり、したがって青少年のもつ知る自由を一定の制約をうけ、その制約を通じて青少年の精神的未熟さに由来する害悪から保護される必要があるといわねばならない。もとよりこの保護を行うのは、第一次的には親権者その他青少年の保護に当たる者の任務であるが、それが十分に機能しない場合も少なくないから、公的な立場からその保護のために関与が行われることも認めねばならないと思われる。本件条例もその一つの方法と考えられる。このようにして、ある表現が受け手として青少年にむけられる場合には、成人に対する表現の規制の場合のように、その制約の憲法適合性について厳格な基準が適用されないものと解するのが相当である。そうであるとすれば、一般に優越する地位をもつ表現の自由を制約する法令について違憲かどうかを判断する基準とされる、その表現につき明白かつ現在の危険が存在しない限り制約を許されないとか、より制限的でない他の選びうる手段の存在するときは制約は違憲となるなどの原則はそのまま適用されないし、表現に対する事前の規制は原則として許されないとか、規制を受ける表現の範囲が明確でなければならないという違憲判断の基準についても成人の場合とは異なり、多少とも緩和した形で適用されると考えられる。”(岐阜県青少年保護育成条例事件・伊藤正己裁判官の補足意見 抜粋)

 

執筆者

加藤 喬

加藤ゼミナール代表・弁護士

青山学院大学法学部 卒業
慶應義塾大学法科大学院 修了
総合39位・労働法1位で司法試験合格
基本7科目・労働法・実務基礎科目の9科目を担当